きんいろのカタツムリ
─ 第2話 ─
八月に入って、耕太郎が勿来海岸の海の家でアルバイトしているというので、知恵理と加奈ちゃんを誘って遊びに行った。
「来たよー」
「おお、よく来た!」
「うわっ! どこの小学生よ!」
加奈ちゃんが声を上げた。耕太郎は全身くまなく真っ黒だった。
「一日中ここにいると、いやでも黒くなるんですよ」
耕太郎は頭をかきながら加奈ちゃんに言い訳している。
「小学生だって、最近はこんなに真っ黒になる子いないよー」
加奈ちゃんのその言葉に、知恵理と私は顔を見合わせた。水泳部だった私たちは、やっぱり夏はこのくらい真っ黒になっていたよね。耕太郎のこと、笑えない。
この海の家は耕太郎の親戚がやっていて、人手が足りないので一週間ほど手伝うのだそうだ。
「去年は人出が少なかったから、そのつもりで人を手配していたらしいんだけど、今年は結構人が多くてね」
「じゃあ、三人分」
利用料を払って、早速更衣室で水着に着替えた。加奈ちゃんの水着姿を見て、私と知恵理はまた顔を見合わせた。ま、加奈ちゃんのナイスバディと張り合ってもしょうがないし。耕太郎の視線は加奈ちゃんに釘付けだ。まったくオトコっていう生き物は……。
ひとしきり海で遊んだあと、海の家に戻ると「これは俺のおごり」と言って耕太郎が焼きそばを持ってきてくれた。
「サンキュー!」
「ちょっとソースに隠し味があって、その辺の焼きそばとは違うんだな、これが」
「耕太郎の夏休み明けの新作弁当の予想がつくよ」
「なに?」
「俺特製ソースの焼きそば弁当!」
海を眺めながら三人で焼きそばを食べた。後ろ姿の耕太郎は忙しく働いている。
「桜井さんは薬学部だからまだ先が長いんだよね」
加奈ちゃんが知恵理に聞いた。
「あと四年ありますから。夏休みもあと四回」
「いいなぁ、知恵理はあと四回も夏休みがあるのかぁ」
「でも五年は病院と調剤薬局の実務実習があるし、六年は卒業研究や国家試験もあるからのんびりしてられないかな。加奈子さんは来年になったら教育実習があるんですよね?」
「そうなの。楽しみ!」
「紗江はこのあとの夏休みの予定は?」
「お盆にお兄ちゃんが東京から帰ってくるから、家族で温泉でも行こうっていう話になってる。あとはヒマー」
「じゃあ今度、皆で東京に遊びに行こうよ」
「あ、いいねいいね。いつにする? 弥生も誘ってあげよう」
そんな話をしているうちに、いつの間にか加奈ちゃんは横になって眠ってしまった。海を眺めてぼんやりしていたら知恵理が私に言った。
「齋藤先輩、就職決まったんだってね」
「うん」
数日前、楽団のメーリングリストにその知らせが流れてきた。
「地元に残って復興の仕事に就くってことは、ずっと震災後の問題に向き合っていくってことでしょ。齋藤先輩っておっとりして見えるけど、自分で決めたことは我が道を行くっていう感じで貫き通したのがすごいよね。高校のときからそうだった」
知恵理がしみじみとそんなことを言った。
齋藤先輩は高校生のときから「将来、地元復興の仕事をする」と言って、復興支援を掲げたカリキュラムのあるこの大学に入った。そしてその志望のとおり、はやばやと地元の復興支援で数々の実績を上げている建築関係の会社に就職が決まった。私にはそのブレることのない強さがまぶしいくらいだ。
後期授業が始まった。キャンパスに戻ってくると、周囲には夏休み前よりも少しざわついた、慌ただしい雰囲気が漂っている。まだ日射しは強い。日陰になっている学習センターのウッドデッキに逃げ込みたくなる。まっ白な薬学部棟と青空のコントラストが目に痛いくらい。
(はー……)
時間がたくさんあるから自分の将来のことを突き詰めて考えようと思っていたのに、堂々巡りをしているだけで夏が終わってしまった。むしろモヤモヤは休み前より濃くなったみたいだ。私はなんてダメなんだろう。
朝、西門のところで加奈ちゃんとすれ違った。教育実習先の担当の先生にこれから挨拶に行くのだという。さすがの加奈ちゃんもちょっと緊張気味の顔。例のスーツは膝丈のスカートに替わっていたのでホッとした。
「加奈ちゃん、ガンバです!」
彼女は頷いてガッツポーズしたあと、「遅刻しちゃう!」と言いながら走って行った。
四年生の就職活動もまさに佳境だ。リクルートスーツ姿で足早にキャンパスを歩く人が目に付く。リラックスした表情の人はもう決まった人だろうか。
自分の夢を叶えた人、そして自分の夢に向かって駆けていく人。そんな人たちが行き交うこのキャンパスで、私はまだ、立ち尽くしている。
休み明け最初の楽団の練習日。その日、齋藤先輩はいなかった。練習のあと、十二月に開催される四年生最後の演奏会「ウィンターコンサート」のプログラムを決めるミーティングがあった。リーダーから配られた候補曲リストを見ると、映画にもなった有名なミュージカル「レ・ミゼラブル」の代表曲『夢やぶれて』があった。
「まさに私にぴったりのタイトル」
ふとそう呟いたら弥生に不思議そうな顔をされてしまった。
でも、私はこの曲が大好きだ。映画館で観た「レ・ミゼラブル」のシーンを思い出す。劇中、すべてを失った絶望の中でフォンテーヌが歌うこの曲。悲しみに溢れた歌詞なのに、メロディーはとても美しく、それが切ない。
「……次は『夢やぶれて』です」
CDプレイヤーから、ボーカルの入っていないアンサンブルアレンジの『夢やぶれて』が流れて来た。ホルンとフルートの前奏が始まり、クラリネットのソロの音色が雑然とした部室を一気に染め上げていく。
(あ、このアレンジだとクラリネットのソロが主旋律を吹くんだ。ここ、齋藤先輩が吹いたら素敵だろうな)
クラリネットのソロパートが終わりホルンがメロディを引き継いだ。美しさ、力強さ、そして哀しさ。ホルンの音色にこんなにいろいろな想いが込められるなんて。
(あ……)
小さな衝撃とともに、胸のずっと底のほうから小さな泡が一つ湧き上がった。それは私の胸の中をどんどん上がっていき水面で弾けた。まるで、あのプールの底で見た景色みたいに。
なんだろう、この気持ち……。
心臓の鼓動が早くなった。
ホルンのメロディに今度はクラリネットの音色が重なっていく。オーボエ、フルート……。どんどん音は厚みを増していき、曲のハイライトは再びクラリネットのソロに。そしてまた、ホルンがクラリネットに寄り添うように音を重ねていく。
私の胸の底では無数の泡が湧き上がっていた。曲が進むにつれ、それはこころのなかで次々と水面へと上っていった。胸がどきどきする……。
水面で弾けた泡の中から、自分でも思いも寄らなかった言葉が飛び出した。
この曲を吹きたい。
(えっ?)
アンサンブルのアレンジだからホルンは一人だ。普通にいけば四年生のホルン奏者、山崎さんか古賀さんが吹くことになるだろう。
でも、この曲が吹きたい。
「『夢やぶれて』っていい曲ですよね。あれ? 紗江ちゃん、どうかしましたか?」
弥生の声で我に返った。胸がどきどきしてそのあとの候補曲は耳に入らなかった。
結局皆が気に入り『夢やぶれて』は早々にプログラムに決まった。皆が気に入ったということは、皆が吹きたいということだ。
(どうしよう……)
思わず他のホルン奏者の顔を見る。普通に考えればへたくそな自分がアンサンブルで吹かせてもらえる訳がない。でも吹きたい。
「じゃあ、だいたい演奏する曲が決まったので、次回の練習で正式なリストを配ります。候補曲が入ったCDはここに何枚か置いておきますから希望者は持って帰って聴いてください」
皆が帰り支度をして部室を出て行った。
「紗江ちゃん、大丈夫ですか? さっきからちょっと変ですよ」
「ううん、なんでもないよ。大丈夫」
弥生にそう答えたものの、少し顔がこわばっているのが自分でもわかった。CDが一枚残っていたので、私はそれを手に部室を出た。
駐輪場で自転車のチェーンロックを外しながら、さっき弾けた泡から出てきた言葉をもう一度取り出してみた。
(この曲を吹きたい)
間違いない。私は『夢やぶれて』を吹きたいのだ。間違いないよ。
でも、今のままの私ではその資格は手に入らない。
サドルに跨がり自転車で走り出した私は、大きく息を吸い込みペダルに力を込めた。
翌日、午前中の講義の合間に薬用植物園に足を運んだ。ガラス越しに温室の中を覗くと実習中の知恵理が見えた。白衣を着て、髪を束ねた真剣な表情の知恵理は、普段より一層クールに見える。
知恵理に初めて会った頃は、妙に大人びた可愛げのないコだと思っていた。中学二年のときに同じクラスになって、帰る方角が同じだったので何度か一緒に帰るうちに話をするようになった。ある日、私の下校が遅くなったとき、先に帰ったと思った知恵理が校門で待っていてくれたことがあった。偶然かと思って「どうしたの?」と聞いたら「一緒に帰りたいから待っていた」と知恵理はさらりと言った。私はいっぺんに彼女が好きになった。そして気がつけば高校、大学と同じキャンパスに通っている。
知恵理の家は地元で調剤薬局チェーンを経営している。両親の希望は一人娘の彼女が薬剤師の資格を取って会社を継いでくれることだ。
高校生のときに知恵理に聞いたことがある。
「知恵理が資格を取らなくても薬剤師の資格を持ってるお婿さんを見つければいいじゃない?」
「そんな条件付きでオトコを選ばなくちゃならないくらいなら自分でやるわよ」
そう言って彼女は薬学部に入学した。
「別の選択肢がない退屈な人生よ」
そんなふうに彼女はときどき嘆いてみせる。でもこんな彼女の夢を聞いたこともある。
「患者さんは病院での診察が終わって、ちょっとほっとしながら薬局にやってくるの。だから私は薬局を病院の延長線と考えないで、ウチの薬局をもっと患者さんがくつろげるような場所にしたいの。それに……」
知恵理は少しはにかむように付け加えた。
「調剤室の清潔で整然とした雰囲気、実は嫌いじゃないのよ。白衣を着てそこにいる自分もね」
選択肢がないと言いながらも、私には知恵理が敷かれたレールの上を走っているようには見えない。レールが敷かれていたとしても、彼女は一度それを壊して、新しく自分の意志でもう一度レールを敷き直している。たとえ目的地が同じであったとしても、だ。
しばらく待つと実習が終わり、温室の中から白衣を着た薬学部の学生たちに混じって知恵理も出てきた。
「どうしたの?」
「ちょっと相談というか」
他の学生がいなくなってから、入り口横のコンクリートブロックに並んで座り、iPodにつないだイヤホンの片方を知恵理に手渡した。もう片方は自分の耳に差す。
「なに?」
「この曲聞いて」
イヤホンから曲が流れ出した。最初はきょとんとした顔をしていた知恵理は(ああ、この曲)という表情で、途中からメロディに合わせて体をゆっくり揺らし始めた。私の胸の中に昨日と同じ泡が湧き上がった。
曲が終わってイヤホンを外しながら知恵理が言った。
「これ、紗江が好きな曲だよね」
「うん」
「ボーカルなしのやつって初めて聴いた」
「ウィンターコンサートでこの曲をやることになったの」
「そうなんだ。紗江も吹くの?」
「たぶん、普通にメンバーを選んだら私はその中に入れないと思う……」
その言葉を聞いて知恵理は私がなにを考えているのかわかった様子だった。
「ひょっとしてそのコンサートが齋藤先輩と一緒に吹く最後の演奏会なの?」
「うん……」
知恵理がまた私の腕をつかんだ。
「夏休みの前にプールで言ったでしょ? 元水泳部なんだから……」
「飛び込んでみればいい……」
「そうそう。紗江のためならなんでも協力するよ!」
知恵理が私の肩に腕を回して、耳元でささやいた。
「いざとなったら、紗江の代わりに私が竹本先生を誘惑して……」
「それ危険! レッドカード!」
「あははは」
「ありがとう。知恵理がオトコだったら、私、齋藤先輩じゃなくて知恵理のことが好きになっていたかも!」
「きゃー!」
知恵理は私の肩を叩きながら爆笑した。
「よし、頑張ってみる。頑張ってみるよ」
私がそう言うと知恵理が頷いてくれた。
知恵理と別れて次の講義に向かう途中、齋藤先輩が学習センターのカフェでお茶を飲みながらノートを広げているのを見つけた。ガラス越しに先輩の横顔を眺めた。高校の時も大学に入ってからも、私はこうやっていつも先輩を見ているだけだった。
知恵理の言葉を思い浮かべた。
(飛び込んでみれば……だ)
あの曲を吹きたいという気持ちと齋藤先輩を想う気持ち。どちらがどちらを後押ししてくれたのかはわからない。私は学習センターの自動ドアを抜けると先輩のいるテーブルに歩み寄った。先輩は私が目の前に立っても気がつかない。少し顔を寄せて小声で話しかけた。
「齋藤先輩」
「おお、小田切か。びっくりした。どうした?」
「ウィンターコンサートのプログラム、聞きましたか?」
「うん、いい曲ばかりだよな」
齋藤先輩はそれぞれの曲の感想を語り始めた。
「『夢やぶれて』はいいよな。後半のクラリネットとホルンが重なっていくところがいい」
私は思いきって言った。
「私、あの曲、吹きたいんです」
齋藤先輩は少し驚いた顔をして一瞬絶句したあと、困ったような表情になった。
わかってる。今の私では難しいってこと。
「率直に聞く。今の小田切じゃ、ちょっと難しいってわかっているか?」
「わかってます」
「ということは練習する気があるってことだ」
「そうです」
「なんだよ、急に。今までそれほど熱心に練習しているようには見えなかったのに」
「あの曲、好きなんです」
勢いに任せて、思い切って私は続けて言った。
「一緒に練習してください。教えてほしいんです」
先輩はしばらく腕組みをして考え込んだあと、言った。
「よし、早速、今日から一緒に練習するか?」
「お願いします!」
その日から齋藤先輩は卒業研究の合間に私と練習してくれることになった。
「忙しい時期なのにすみません」
「いいよ。俺も自分の練習になるから気にするな」
人のあまり来ない放課後の教室が私たちのレッスン場所になった。楽器と譜面台を二人で講堂の部室から運び出し、暗くなるまで練習した。部室や講堂のホワイエじゃなくて放課後の教室を選んだのは、人に聴かれると恥ずかしいということと、齋藤先輩と二人きりになりたいという下心もちょっとあった。でも練習が始まると齋藤先輩は私のそんな気持ちなんてお構いなしだった。
「メロディのブレスと合わせて!」
私の演奏は気持ちばかりが空回りしてボロボロ。何度吹いても思ったように吹けない。そのたびに齋藤先輩は厳しく指摘した。
そもそも齋藤先輩と二人きりになれるなんて、胸がときめかないはずがないのだ。しかも、うまく吹かなきゃとか、吹いているときの変な顔を見られたくないとか、齋藤先輩がやっぱり好きとか、それにしてももうちょっと優しく言ってくれればいいのに、とか。さらには、だいたい先輩は私のことをどう思っているんだろう?とか……。いろいろな思いが押し寄せてきてぜんぜん集中できない!
「俺が思うに、小田切はセンスは悪くない。でも音の硬さがなかなか抜けないな。緊張しているのか?」
「あの……先輩と二人きりだと思うと緊張してしまって」
あ、思わず言ってしまった!
「すまん。俺、ちょっとキツすぎるか?」
「いえ、そういう緊張じゃなくて……」
やっぱり先輩は私の気持ちにまったく気がついてない……?
ある日、練習の合間に先輩とゆっくり話をした。こんなにたくさん先輩と話したのは初めてだった。
「齋藤先輩のお母さんは確か中学校の音楽の先生なんですよね?」
「そう、お袋はピアノが専門で親父はギターを弾くし、兄貴たちもサックスとベースをやるから、俺が中学生の頃まではよく家族で演奏したよ」
「なんだか素敵なご家族ですね」
「ご近所さんにとっては騒がしい家だったと思うよ。でも兄貴たちが就職して家を出てからは静かになったけど」
「お兄さんたち、今は?」
「今は二人とも就職して東京。最近は忙しいらしくて、どっちもめったに帰ってこないよ。別に末っ子の俺が最後に残ったからっていう訳じゃないけど、自分は地元に残って、地元の役に立つ仕事をするのがずっと夢だった」
「夢、叶いましたね」
「ああ、俺はここが好きだし、やりたい仕事もここにあるからな」
(あっ……)
先輩のその言葉を聞いて、また小さな泡が胸の底から湧き上がった。
齋藤先輩が忙しいときは一人で練習した。
ある日、いつも練習している教室に入ったら、窓際の隅に先客がいた。誰かと思ったら祥平だった。
なんでよりによって私の嫌いなヤツがここにいるのよ。どういうことよ?
祥平はノートパソコンを広げてなにかやっている。
「なんであんたがここにいるのよ?」
祥平は私の声にびっくりした様子で顔を上げた。
「なんだよ。どこにいようが俺の勝手だろ。人のいないところの方が集中できるんだよ」
「あたしはいつもここで練習してるのよ」
「ああ、最近どっかから楽器の音が聞こえていたのはおまえか。なんか二人で演奏してるみたいだけど、片っぽは結構うまいけど、もう片っぽはへたくそだなって皆で笑ってた。そのへたくそな方がおまえだろ?」
「よ、余計なお世話よ。へたくそだから練習してるんじゃない!」
自分の顔が赤くなるのがわかった。
「そりゃ、ご熱心なことだ」
そう言って祥平は視線を前に戻すと、私を無視してキーボードをまた叩き始めた。
相変わらずの態度にうんざりしながら、でも別の教室に行くのも悔しいので、教室の反対側に譜面台を置いて練習の準備をしていると、今度は祥平が話しかけてきた。
「おまえ、結局サブメジャーは『地域公共政策』にしたんだろ?」
「そうよ」
「どうせ、やりたいことも特にないし、公務員にでもなろうっていうことだろ?」
(くっ……!)
返す言葉に詰まった。
「公務員になろうっていうヤツはそういうヤツばっかりだよな」
「そんなことないわよ! 震災のあと、市役所の人とかどんなに頑張っていたか知らないの? 他の場所は知らないけど、少なくともこの町で公務員になろうっていう人に、そんな中途半端な人はいないよ!」
「じゃあ、おまえは公務員になってなにすんだよ?」
「そんなこと、あんたに話す必要ないじゃない」
「おまえみたいに、特にやりたいことありません。とりあえず毎日適当に楽しければいいですっていう顔をしているヤツを見てるとイライラすんだよ」
「ケンカ売ってるの?」
「だいたい、この町にずっといてなにが楽しいんだ? 俺は卒業したらとっとと出ていくつもりだけどな」
なんでこんなヤツがこの大学にいるんだ? 性格は最悪だけど頭がいいのはわかる。英語も喋れるし、コンピュータリテラシーの授業であっという間にホームページを作って見せたり。最近ではお金を取ってサークルのホームページを作ってるっていうウワサも聞いた。それも結構高い料金で。
祥平の手元にあった紙が、開けてあった窓から吹き込んだ風に飛ばされて私の近くに落ちた。拾い上げるとそれは弥生のところの旅館のホームページをプリントアウトしたものだった。英語であちこちにメモが書いてある。
「なんであんたが弥生んちのホームページのプリントアウトを持ってるのよ? なにかホームページにイタズラしようとしてるんじゃないわよね。バッティングとか」
「それを言うならハッキングだろ?」
言い間違いを指摘されてまた顔が赤くなった。
「なんで俺がこんな田舎の旅館のホームページをハッキングしなくちゃなんないんだよ。アホか?」
「じゃあなんでこんなもの持ってるのよ?」
「あいつに頼まれたんだよ。最近、海外から問い合わせがあるから英語の案内ページを作ってくれって。しっかしひどいホームページ。どこの業者が作ったのか知らねーけど」
なんでよりによって弥生は祥平なんかに頼んだんだろう?
「あ、そう……。どうでもいいけど、あんた、弥生に手を出したらぶん殴るからね」
「おまえは弥生の保護者かよ。あんなぽわぽわした女に興味ねーよ」
「とにかく手を出したら承知しないからね」
「あー、はいはい。わかったわかった」
祥平はノートパソコンを閉じると、私の傍らに来てそのプリントアウトをひったくった。
「おまえのへたくそな演奏を聴くのは耐えられないから、俺は退散するよ。練習頑張れよ。ま、どうせ好きな男に格好いいとこ見せたいとか、そんな動機だろうけど」
思わず手が出そうになった。祥平は例の曲がった口で笑いながら立ち去った。
祥平が立ち去ったあと、練習を始めようとしたけれど、あいつに言われたことが悔しくて腹が立って涙が出てくる。馬鹿にされたからじゃない。祥平が言ったことが本当のことだからだ。
わかってるわよ! あんたに言われなくても。だからずっと出口を探して、もがいているんじゃないの。こうやってホルンの練習をしてるのだって、なにか答えが見つかるかもしれないって思っているから頑張ってるのに。
私は大きく息を吸い込むと、むしゃくしゃした気持ちを吐き出すように、思いっきりホルンを吹いた。
「小田切、頑張ってるな」
その日は耕太郎と知恵理が一緒に教室にやってきた。
「知恵理と耕太郎って、なんだか珍しい組み合わせ」
「陣内君が新作を作ってきたっていうから連れてきた」
耕太郎は例によって白い袋を提げている。
「今日は新作というか、頑張っている小田切に差し入れだから、絶対外れてないやつ」
そう言いながら耕太郎が取り出したのはボリュームたっぷりのカツサンドだった。
「弥生さんから雛乃屋が仕入れているおいしいパン屋さんを教えてもらったから、そこのパンで作ってみた」
「耕太郎、ナイス! 大好きカツサンド」
「桜井さんの分もあるから、どうぞ」
知恵理は差し出されたカツサンドを前に躊躇した。
「え、私は……。もう! 折角ダイエットしてるのに」
そう言いながら、結局、知恵理もカツサンドを受け取った。二人でカツサンドを食べていると、壁に寄りかかった耕太郎がこっちを見ている。
「耕太郎、またじろじろ見てる」
「あ、悪い悪い。気にしないで。桜井さんも」
「陣内君は、自分の作ったお弁当をおいしそうに食べてるか観察するのが趣味なの?」
「観察って、そんな悪趣味じゃないよ。そういうわけじゃないけど、まあ、気になるというかさ。ウマそうに食ってもらうと、こっちも嬉しいし」
「前もそう言ってたよね」
「まあ、きっかけというか、原体験みたいなものがあってさ。小田切や桜井さんにはこの話、したことないけど、あの震災のとき、避難所に弁当を持って行ったことがあるんだよ。まだガスとか止まっていたけど、親父がどっかからプロパンを調達してきて、材料もほとんどなかったから、かき集めた野菜で作った煮物と飯だけの弁当だったけど。一晩中かけて作った弁当をクルマに積めるだけ積んで避難所に向かって行ったら、まだ救援物資とかぜんぜん届いてないところがたくさんあってさ、そういうところに弁当を配っていったら皆本当に喜んでくれて。俺が作った弁当をおいしいって言って泣く人とかいたんだよ。自分が作った弁当をこんなにウマそうに食べてくれる人がいる。俺の弁当屋的原体験とでも言うのかなぁ。中学生の俺には強烈な体験だった。それで俺は弁当屋を継ぐ決心をしたんだよね」
私と知恵理はいつの間にか食べるのをやめて耕太郎の話を聞いていた。
「耕太郎、ちょっと見直した。いつもの暑苦しい話の原点はそれなんだ」
「なんだよ、暑苦しい話って?」
「『陣内屋大躍進!』の話」
「俺、暑苦しいかよ!?」
「あはは、それは耕太郎のキャラだから、私はそのままでいいと思うよ」
耕太郎は照れているのか、頭をかきながら苦笑いしている。
「まあ、大学に入って、小田切とか桜井さんとかいろんな友だちができてよかったよ。俺は高校出たらすぐに弁当屋をやるつもりだったけど、親父が自分は弁当作る以外は能がないからおまえはいろんな勉強をしておけって、それからでも遅くないってここに入れてくれたから」
カツサンドを食べ終えると知恵理が私の肩を指先でつつきながら言った。
「紗江、せっかくだからちょっと吹いてみせてよ」
「ええ? まだちょっと人に聴かせるのは恥ずかしいなぁ」
「そう言わずに」
「……じゃあ」
私はホルンを抱えて立ち上がると、小さく深呼吸をしてから吹き始めた。今さらこの二人の前で格好つけてもしょうがない。そう思ったらリラックスできたのか、ミスしないで最後まで吹くことができた。
吹き終えると二人が拍手してくれた。
「上手! 前に一度聴かせてもらったときよりずっとうまくなってる!」
耕太郎が腕組みして頷いている。
「うんうん、思わず目を閉じて聞き惚れちゃったよ」
「ありがとうと言いたいところだけど、練習してるのに前よりヘタになったら私、ヤバすぎるでしょ!」
「あはは! あんまり練習の邪魔しちゃ悪いから私たちは退散するね。頑張って」
「うん、ありがとう。あれ、耕太郎、なに?」
帰りかけた耕太郎が私のバッグに付いているアドちゃんストラップを手に取って、しげしげと眺めている。
「まだこのストラップ持ってたんだ? これオープンキャンパスでもらったやつだろ? 小田切はホントにアドちゃん好きだな」
そう、このアドちゃんストラップは高校三年の夏、オープンキャンパスで初めてこの大学を訪れたときにもらったやつだ。
あの時、齋藤先輩はオープンキャンパスの学生スタッフとしてアドちゃんの付き添い役をやっていた。私との再会を喜んでくれた齋藤先輩の横で、同じように喜んだ仕草で動き回るアドちゃんがお茶目で可愛らしくて一目でファンになった。齋藤先輩と私の再会を一緒に喜んでくれているように思えたのだ。今ではアドちゃんと私は学内のイベントで出会うと必ずハグする仲だ。
「可愛いじゃん、アドちゃん」
「そうかぁ? 俺にはその感覚はよくわからんけど」
視線で耕太郎から同意を求められた知恵理が苦笑いしている。
「んー、まあ……。愛嬌はあるかな」
「一体、あの中には誰が入ってるんだろうな。ひょっとしてオジサンだったりして」
「中に人なんて入ってません! アドちゃんはアドちゃんなの!」
知恵理と耕太郎が盛大に吹きだした。
何度も練習を重ねるうちに、だいぶいい感じに吹けるようになってきたと思う。齋藤先輩に厳しい指摘をされることも少なくなった。たまの指摘も最初の頃に比べると曲の解釈に関することが多い。曲を深く理解し表現する段階に差し掛かっているのだ。
音をキャッチボールしたり重ねたり。二人で呼吸を合わせて吹くことがこんなに楽しいなんて。自分がホルンのおかげでこんな場所に辿り着けるとは思ってもいなかった。これまでずっと「私には才能ないかも」って思ってた。音楽の才能があるかどうかは今もわからないけど、頑張れる才能なら、私にもあるかもしれない。
「ここまできたら、あとは一度、竹本先生に聴いてもらうのがいい。ここから先は俺なんかより竹本先生の個人レッスンを受けた方が早く上のレベルにいけるはずだ」
齋藤先輩がそう言って私の背中を押してくれた。先輩と練習を始めてからすでに二ヶ月が経っていた。
数日後、意を決して講堂の一階にある竹本先生の監督室を訪ねた。ドアに貼ってあるカレンダーに個人レッスンができる日時がマークされている。今はちょうどその時間帯だ。
ノックすると「どうぞ」と中から声がした。ドアを開けてすき間から中を覗くと、デスクに置いた鏡を見ながらヒゲのお手入れしている竹本先生と目が合った。
竹本先生の片方の眉がぴくっと上がった。
「小田切君がここに来るのは二度目だね。一度目は楽団に入ったときだったかな」
つまり私は今まで一度も個人レッスンを受けに来ていないということだ。
「楽器持参ということは個人レッスン希望かな?」
「練習している曲があるので、アドバイスをいただきたくて来ました」
「どんな曲?」
私はバッグから楽譜を取り出した。曲のタイトルを見て、竹本先生の眉がまた上がった。
「じゃあ一度吹いてごらん」
「はい」
私はホルンケースからホルンを取り出し準備した。先生は譜面台を私の前に置いてくれたあと、少し離れた場所の椅子に座った。
「準備いいかい?」
深呼吸したあと、頷いた。先生が小さく上げた右手を振り下ろすのにあわせて私は吹き始めた。最初の何小節かは緊張して音が落ち着かなかった。
(練習したとおり、落ち着いて)
そう自分に言い聞かせたけど、吹いてる間中ずっと、胸の鼓動はメロディよりはるかに速いリズムを刻んでいた。
曲が終わったとき、先生は腕を組んで考え込んでいた。
「私が知っている小田切君よりうまいな。こういう音を出せるとは知らなかった」
(えっ、褒められた?)
「練習してたの?」
「はい」
「率直に言って、今まで小田切君はそれほど熱心な楽団員だと思っていなかった。それは自分でも自覚しているかな?」
「わかっています」
「それがなぜ急に?」
私はその答えに詰まった。
(この曲が好きだから)
もちろんそれが最初の理由だ。
(齋藤先輩の最後の演奏会で一緒に吹きたいから)
それもある。
でも今、竹本先生に「なぜ」と聞かれて、自分の胸の中にうまく言葉にできない気持ちがあることに気がついた。なぜ私はこの曲を吹くためにこんなに一生懸命なんだろう……。
「小田切くんはこの曲の原題を知っているかい?」
「I dreamed a dream ですよね?」
「J’avais rêvé d’une autre vie」
竹本先生が口にしたのはフランス語のようだった。
「フランス語、ですか?」
「そう。ミュージカルの『レ・ミゼラブル』の曲を書いた人はフランス人だからね。本当の原題はフランス語だよ。意味わかる?」
「わかりません」
「直訳だと『私は違う人生を夢見た』。『夢やぶれて』より、私はこのフランス語のタイトルのニュアンスが好きだな」
確かに『夢やぶれて』と『私は違う人生を夢見た』ではニュアンスが違う。
「僕は、この曲は生まれ変わって新しい人生を始めたいと思っている人へ捧げられた曲だと思う。ほら、イギリスのオーディション番組でおばちゃんが歌って随分話題になったよね」
「スーザン・ボイルさん」
「うん、あの商店街のおばちゃんみたいな女性が、誰もが驚くような素晴らしい歌声でこの曲を歌ってオーディションに受かった。でも世界中の人が感動したのは、彼女が歌がうまかったからだけではないと僕は思う。あの人は自分の人生に絶望してこの曲を歌ったわけじゃない。この曲を歌って生まれ変わろうとした。生まれ変わるためにこの曲を歌った。大勢の人が感動したのはそのことなんじゃないかな?」
(あっ……)
『夢やぶれて』の吹奏楽アレンジを初めて聴いたとき、クラリネットに寄り添うホルンの音に齋藤先輩と自分の姿を重ねた。この曲を吹きたいと思った動機はそれだと自分で思い込んでいた。でも、先生の言葉で今、ストンと腑に落ちた。それだけじゃなかったのだ。私のあの強い衝動は。
(私は、生まれ変わるためにこの曲を選んだ)
竹本先生の目は「そういうことなのでは?」と言っているかのようだった。
「それに、本当に絶望だけの曲だったら、作者はこんなに美しいメロディをこの曲に与えなかったとは思わないかい?」
曲を理解する。音楽を知るってこんなにも奥深い。先生がいつも「演奏がうまくなることは本当に大切なことの一部でしかない」と言っている意味が少しわかった気がした。
「じゃあ、いくつかポイントを言うからそこに注意してもう一度吹いてみて」
「このテヌートはもっときちんと!」
「このフレーズはもっと歌って!」
「このフレーズのスラーを大事に!」
「最後の一音まで気を抜かずにしっかりと!」
ダメ出しをする竹本先生はいつもの厳しい先生だった。
三十分ほどのレッスンで山のように課題点を指摘された。
(この曲、私、吹きたいんです)
この部屋に来る前は、竹本先生にそう言うつもりだった。でも、ひょっとしたらそこそこ吹けているかもと思っていた私の演奏レベルはまだまだだった。
そんな私の様子を見て取ったのか、竹本先生は諭すように言った。
「なにもないところに水をやっても芽は出ない。でもほんの少しでも芽吹きの気配を見つけたら、それをちゃんと芽吹かせ、根付かせる。それが僕らの仕事だ」
先生は練習するポイントを楽譜に書き込みながらそう話したあと、片方の眉を上げて言った。
「じゃあ次のレッスンはいつにしようか?」
このタイミングで次の演奏会の曲目を個人レッスンの曲としてお願いしたのだ。その意味は先生にはお見通しだろう。最後に先生はこう付け加えた。
「君の出す音がこの曲にふさわしければ君が吹くことになる。それ以上でもそれ以下でもない」
その後、竹本先生のレッスンを受けるたびに、私はこの曲の世界がわかってきたような気がする。
「小田切がどんどんうまくなっていくから、逆に今度は俺の方が刺激を受けるよ」
齋藤先輩はそんなふうに言ってくれた。二人で練習するときもいろいろなニュアンスで吹き方を変えてみたりした。
そして……、十一月も終わりに近づいたある日のこと。
「今日は『夢やぶれて』の編成を絞っていこう」
楽団の練習で竹本先生がそう言うのを聞いて、私は口から心臓が飛び出しそうになった。
「この曲は楽器の絡みを聴きたいから、アンサンブルで吹いてもらって決めていくよ。まずクラリネットは北川君、ホルンは山崎君。他は今のままで」
竹本先生が編成の指示を出した。指名された団員が入って演奏が始まった。
「次はクラリネットは齋藤君、ホルンは山崎君そのまま」
「次はクラリネットは齋藤君のまま、ホルンは古賀君に替わって」
竹本先生は「ちょっと違う」という表情で次々に奏者を入れ替えていった。
(私の名前も呼ばれる……?)
「じゃあ次は小田切君、入って」
(うわっ! ついに来た)
齋藤先輩が私の顔を見て小さく頷いた。私は前奏の齋藤先輩のクラリネットに続けて吹き始めた。うまく吹けたかどうか、自分ではわからない。
「じゃあ、齋藤君と小田切君はそのままで、今度はフルートとオーボエを入れ替えていくよ」
他の楽器の奏者の交代ごとに私は演奏を繰り返した。
フルート奏者が入れ替わり弥生が入った。ほわんとした弥生もさすがに少し緊張している。
弥生が入った演奏が終わり、竹本先生はしばらく腕組みしながら何度か頷いたあと言った。
「この編成が一番よかった。『夢やぶれて』はこれで行こう。じゃあ今日の練習はここまで」
私は一瞬耳を疑い、そのあと頭の中が真っ白になった。
皆が席を立ち部室に引き上げて行く。齋藤先輩が私を見て笑顔で小さくガッツポーズした。私は全身脱力してしまって、頷くことすらできなかった。
「紗江ちゃん、やりましたね! すごいです」
そう言ってくれた弥生の声も遠くから聞こえるようだった。
皆が引き上げたあとも、私は椅子から立ち上がれずにいた。
「紗江ちゃん、どうしたんですか?」
戻ってきた弥生の声に振り返ったとき、ホルンに何か落ちた。
「あれ? どうしたんだろう、あれ??」
私は自分が涙を流していることに気がついた。自分の涙を見て、堰を切ったように涙がこぼれた。私はホルンを抱きしめたまま泣き続けた。

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